海に浸かるよ潮湯治

奥田 一宏

一般社団法人海洋文化創造フォーラム

理事

2025.02.28

私は泳げない。カナヅチである。悔しいが泳げないのだ。学生時代、彼女と行った富山の海。波打ち際からわずか数メートルの浅瀬で慌てる彼女と共に溺れ、恋も海の泡と消えた。以来水深1.5メートル以深には行かない。近づかない。海への足自体も自然遠のいた…。

幻想的な富山の海

そんな私だが海に戻ってきた。
潮湯治だ。
5年前、滝行趣味の友人に連れられ3月の富山・岩瀬の浜に「ざぶん」と飛び込んだ。水温12度。波打ち際には身投げしたホタルイカ達が並んでいた。私も身投げ同然の気分だったが何せ浅い。水深50センチの海に頭から突っ込むこと十数秒。

筆者と、浜に打ち上げられたホタルイカ(ホタルイカの身投げ)

私は変わった。悟った。
そう。海とは浸かることよ。浴びること。これこそが真の海水浴ではないか。その時言葉の構成に気が付いた。泳がなくても良いじゃないか。気分も良い。
そこから富山の海に少しづつ浸かり始めた。

東は朝日・宮崎海岸、西は氷見・阿尾。能登にも遠征した。遠浅が多く私にはうってつけ。浸かる範囲も広がった。山形、鹿児島、淡路の海にも浸かった。春夏秋冬、年10回が目標だ。どの海も違う。匂い、色、砂、波の強さ。んっ?いや浅くても波はある。
海に浸かるだけ。知り合いの作家 安部龍太郎さんがそれこそが潮(しお)湯治だと教えてくれた。
潮湯治・・・。何という心地よい響きだ。個人的な感想だが言葉としては海水浴より幅広い層の心をつかむのではないか。とりわけ私のように海は好きだが泳ぎが苦手で敬遠がちな人々にはうってつけだろう。なんせ浸かるだけでよいのだ。あとは浜で休もう。

この潮湯治、起源を研究した学者の論文では、初登場はなんと今から千年前の平安期、摂関政治全盛の頃。確か天変地異も多かった時代だ。人々は海に浸かることで災害や疾病退散を願い海で心身を癒していたのではと思われる。また同じ論文に潮湯治は夏だけではなく冬にも行われていたとも記されている。マイ潮湯治の流儀だ。
さあ皆さん、西洋伝来シーボルト先生が発祥と言われる海水浴も結構。だが我が国古来から伝わる潮湯治、自分流の潮湯治を発見し楽しみませんか。効能はあなた次第だ。
令和7年は潮湯治再興の年。老いも若きも海に親しむ日本の新たな海洋文化の幕開けに。
潮湯治―。今年の浸かり初めが近づいている。

愉快な仲間たちとの潮湯治 右端が筆者

奥田 一宏

一般社団法人海洋文化創造フォーラム

理事